ヨガ哲学 今日は欲望✨
身体を使ったヨガ、一般的にヨガとして知られているヨガをやっていると、
その後ろにある哲学、
にいきつくことがあります。
今日はその中から。
私が自分に必要だと思うところを書いていきます。
欲望、について❗️
それと感覚を律すること、について☺︎
個人的に、特に恋愛してると欲や執着が気になるワードになります。
まずヨガって。
マットのうえのストレッチ的な体操、というイメージがあると思いますが。
じつはマットのうえのことは
日常生活でもあてはまり、むしろ日常生活の縮図になっていたりします。
マットのうえで体をのばしたりねじったりすると起こる感覚。よくあるのは痛みなどの心地よくない感覚でしょうか。もっとこうしたいのに、!!という感じでしょうか。
でもその感覚を自分と一体化することなくジャッジすることなく観察する目でみて感じる。
例えばほんとに痛いのか?痛みは痛みならばどんな痛み?生の電気信号としての、データとしての感覚をみる。痛み、という単語と、それに紐付く諸々のことにひっぱられないように。
そしてその感覚にひっぱられそうになるけれど、
目指すもの、
例えば背骨のねじりだったり指先の方向だったり、に意識をもどしてあげる。
これらはマットのうえでこと。
でも日常生活にも同じことが起きている。
心地よいとはいえないことや、
感覚に訴えかけて本来の目的から意識をそごうとするものなどはたくさんあるから。
例えば。
ダイエットしよ!と思っても、
ねぇ、イチゴの季節だしショートケーキ食べに行こうよ、と言われたり(耳からの感覚)、
チョコレート専門店オープン、の看板を見たら(目からの感覚)、、
外からの感覚にひかれて意識は移ろいやすいです。
それをもどしてあげる。
まぁ、一例です☆
言うならば、自分の感覚を律する、
感覚に支配されない、ということなんですが。
そういった考え、思想が
ヨガにはあるんです。
今日はそれに関連して。
◎執着。
私、たまに、
欲、
がすごく起こります。
欲望。
ヨガの用語ではカーマといいます。
欲望の対象は都度変わりますが、
物だったり、
人との関係だったり。
はじめは純粋にいいなー、心地いい、好きだなーいう気持ち。
小さなものだと、アイス美味しいなーとか、
ハワイ行きたい!とか、あの服着たい、ほしい、とか。
これはいいも悪いもなく。
ただ好き。
心に感覚が浮かぶ、自然なこと。
それがいつしか、
どうしても欲しい、
ずっと欲しい、
に変わると。
自然な思いは欲望となっていき、
最終的には
自分が受け入れられなかったという悲しみや、
どうして!?という怒りに変わります。
そのとき、
悲しみと一体化していたり、
怒りに我を忘れてしまったり。
欲しい洋服が頭から離れず、
ネットを見ちゃったり、買おうかどうしようか考え続けちゃうのもこれかな。
ヨガでは。
こういう感覚や心を、
暴走させないように、
自分にとっての最善の道具とするよう、そうなるように、
ヨガで体を整えるよう言っていたりします。
同じポーズするのでも、
ポーズと一体化するのではなく
ポーズをとる自分をひとつ離れて観察してみるといいかもしれません。